文部省唱歌「春の小川」に歌われた河骨川の現在は?

は〜るのおがわは、さらさらいくよ….

この歌を知らない人はほとんどいないでしょう。
「春の小川」に歌われた川は、現在の渋谷区・代々木4丁目にあった泉を起点とする河骨川だ、という説があります。
当時、代々木3丁目に住んでいた国文学者・高野辰之氏がそんな河骨川を思って大正元年に発表したのが、「春の小川」というわけです。
ただし、当初この曲に作詞・作曲者の表記がなかったため、確証はありません。

そんな「春の小川」ですが、現在はどうなっているのでしょうか。

渋谷区では毎年5月に、春の小川合唱祭を開催しています。
高野氏の子孫を招き、地域の代々木山谷小学校の子供たちが、代々木5丁目にある区の広場で春の小川ほか数曲を歌います。

そんな様子とともに、現在の“春の小川”を辿ってみたいと思います。


周辺のあちこちの電柱には、こんな表示が見られます。
線路沿いに行けば、何か痕跡があるのかな?


で、行って見ると…
何?「この通り」って….この通りがそうだってこと?


「通り」と言っても人がすれ違うのがやっと、という狭さで、もちろんクルマは通れません。


河骨川は暗渠、つまり地下化されているので、ようするにこれ「マンホールの蓋」が春の小川の今、ってこと?

な〜んか、痕跡くらい残ってないの?と思って観察すると、石垣らしきものがあった。
暗渠になったのは東京オリンピックの頃だというので、このくらいの痕跡は残っていても不思議はない。
この石垣は河骨川の護岸だった可能性が高いと思われる。ここに、こんな幅の狭い石垣を作る意味はないですからね。


この空き地、小田急電鉄の管理地と思われるが、2017年までは野草が伸び放題だった。
近隣の空き地などには見られない数珠玉(湿地を好む)などが群生していたので、ここが小川沿いだったことの名残と思われる。
しかし、そんな唯一の痕跡も今やこの通り、強固に固められている。


毎年5月に催される、春の小川合唱祭。2018年で17回を迎える。


来てるのは、近所の人、合唱に駆りだされた子供たちの親くらいだろうか。
お餅が配られるのが目当ての人も?

合唱祭会場に面したところに、こんな記念碑が建っている。

代々木五丁目65番
『春の小川』歌碑

 ここにはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい“こうほね”がさいていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。
 明治四十二年(西暦1909年)から代々木山谷(現代々木三丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このあたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれています。そして、今も歌い続けられている『春の小川 』を作詞して、大正元年(西暦1912年)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。
 現在、河骨川 は暗渠(あんきょ)となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑 は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。

渋谷区教育委員会

昔の情景を偲ぶのはいいけど、春の小川の現在が、あまりに悲しすぎないでしょうかね。

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