ヴィクター・ベイリー(ベーシスト)死去。死因は遺伝性の難病。

ジャズ・フュージョンからR&B、ポップスまで幅広く活躍したエレクトリック・ベースの名手、ヴィクター・ベイリー(Victor Bailey)が2016年11月11日に亡くなりました。

折しもこの日、日本ではベースの日。
ベーシストにとっては、ちょっとしたお祭り気分に湧く中、この悲しい知らせが届きました。

(ベースの日:音楽プロデューサーでベーシストの亀田誠治が、2013年の11月11日に、J-WAVE「BEHIND THE MELODY~FM KAMEDA」の番組で提案したことに端を発し日本記念日協会に申請。2014年12月10日、「ベースの日」として正式に登録される)

誕生、家族について

どんな人物だったのか、振り返ってみましょう。
まずは、家族のことです。
ヴィクターは1960年3月27日、フィラデルフィアの音楽一家に生まれました。
父親はモーリス・ベイリー・ジュニア。
作編曲家・プロデューサーで、サックス奏者としてはマッコイ・タイナーやリー・モーガンとの共演歴もあるとのことですが、私は知りませんでした。

叔父はドナルド・ベイリー。
有名なドラマーで、ジャズオルガンの巨匠、ジミー・スミスとの共演で知られる人です。

ドナルド・ベイリーのリーダーアルバム。
スネアのセッティングが、
かなり角度が付いてることが
お分かり頂けますでしょうか。

1970年台に日本のジャズシーンで活動していた時期もあり、当時ベーシストの鈴木勲のバンドでレコーディングもしています。
その頃私は新宿ピットインでドナルドのプレイを見ています。
極めて薄いスネアをほぼ垂直にセッティングするなど非常に変わったドラムセットを使い、バラードでは、ブラシの代わりに立ち上がって掃除機のホースのようなものをグルグル回すなど、他人と同じことをやらないというタイプの特異なドラマーだったことが強く印象に残っています。
また、ヴィクターの妹も、ディスコ全盛期、シンガーとして活動したそうです。

メジャーデビューまで

ヴィクターは最初、ドラムをプレイしたそうで、このあたりはジャコの経歴と重なりますね。ベースに転向したのち、地元フィラデルフィアでは引っ張りだことなり、あらゆるスタイルのバンドに参加、地元のバンドでレコーディングも経験したようです。

その後、ボストンのバークリー音楽院に学び、学校ではスティーブ・ヴァイ、ブランフォード・マルサリス、グレッグ・オズビー、シンディ・ブラックマン、テリー・リーキャリントンなど後の一流ミュージシャンたちと出会います。本格的なプロキャリアのスタートは、トランペッターのヒュー・マサケラのバンドでした。

ウェザー・リポートへの参加

ヴィクターの名が世界に知られることとなるのは、70〜80年台のジャズシーンを代表するバンド、ウェザー・リポート(以下WR)への参加でした。
WRはオーストリア出身のジョー・ザヴィヌルとマイルス・デイヴィスのバンドに長らく在籍したシーンを代表するサックス奏者、ウェイン・ショーターの双頭コンボです。

ヴィクターは、オマー・ハキム(屈指の名ドラマーでありヴィクター自身デビュー当時から晩年まで生涯の友となる)とともに、1982年WR4代目のベーシストとなります。
ヴィクター22才で巡ってきたビッグチャンス。WRへの参加は10代の頃からの夢だったそうです。まさにアメリカン・ドリームですね。

しかし、天才ジャコ・パストリアスの後任ということで、世間の厳しい耳に晒されましたが、リーダー、ジョー・ザヴィヌルの評価はひじょうに高かったようで、1986年のWR解散後のザヴィヌル・シンジケートでもヴィクターがメンバーに起用されています。

1982年プレイボーイ・ジャズフェスティバルでのWR。
ヴィクター加入直後のライブと思われます。ジャコの後任ということで、ジャコが弾いてた曲も多かったためか、ジャコのフォロワーという印象ですが、オマー・ハキムとともにかなりアグレッシヴな演奏で、グイグイ来ますね。

以後も、幅広いフィールドで輝くキャリア

ソニー・ロリンズ、渡辺貞夫、レニー・ホワイト、マイク・スターン、デニス・チェンバースなど、押しも押されぬジャズシーンのスターミュージシャンとの共演を重ね、1980〜2000年台のトップベーシストの一人として確固たる地位を築きます。
活動の場はジャズシーンに留まらず、レディガガやマドンナなど、ポップス界の大御所のレコーディングやツアーにも参加しています。
ヴィクターは1979年ナベサダのジャパン・ツアーに同行した初来日以来、31回も来日しているそうです。モーニングアイランドが大ヒットした頃の、最盛期のナベサダですね。
当時はWR加入前で日本ではまったく無名のベーシストでした。おそらくまだバークリー在学中だったのではないでしょうか。

ブラックミュージック評論家・吉岡正晴氏が、最後の来日となってしまった2013年のライブをレポートしています。この31回目の来日が、初めて自らのバンドを率いての公演だったそうです。
「杖をつきながらステージに登場し、スツールに座りながらプレイ。しかし、座ってもグルーヴ感は完璧だ。それにしてもごきげんなライヴだった。特にPファンクのヒット曲『ニー・ディープ』のすごさは驚いた。ファンクとジャズがいい具合にブレンドしていた」
●吉岡正晴のソウル・サーチン
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11455237767.html

2000年以降のヴィクターの活動について、実は私はあまり知らなかったのですが、ギタリストのラリー・コリエル、ドラマーのレニー・ホワイトという、ヴィクターにとっては大先輩にあたる往年のスタープレイヤーとトリオ編成のバンドを結成していたようです。この映像は2006年ですが、すでに立ってプレイするのには支障があったのでしょうか。

使用楽器等について

主にエレクトリックベースをプレイしていますが、コントラバスも弾くようです。
また、自己のリーダー作ではドラムもプレイし、歌も歌っています。母親や妹がシンガーだったので、そんな血筋も引いているのでしょうね。
上の映像でも歌っていますが、朗々としたなかなかの歌いっぷりです。

愛用のベース。
初期はフェンダー・ジャズベース、日本製のムーンJJなどが写真で確認されます。
2000年台以降は、自らの理想を元に開発された、フェンダー社の「ビクター・ベイリー・シグネチャーモデル」を主に使いっていたようです。
これはジャズベースをカスタマイズしたもので、一般向けに市販もされていて人気モデルとなっていました(現在は製造中止ですが中古市場ではよく目にします)。5弦やフレットレスもあります。
仕様を簡単に紹介しておきましょう。
ボディにKoa/Rosewood/Mahoganyをラミネイト。ネックはMaple、
フィンガーボードはRosewood。ネックジョイントの1弦側のカッタウェイが深く削られ、ハイポジション が演奏しやすいようヒールレスカット。ピックアップには、Samarium Cobalt Noiselessを搭載。オリジナルのアクティブ3バンド・イコライザーを搭載。ヴィクターのサウンドは時にフレットレスのように聴こえますが、主にフレッテッド・ベースを使用しているようです。

遺伝性の病気について

2016年4月のインタビューで、ヴィクター本人が、シャルコー・マリー・トゥース病について説明しています。
http://jazztimes.com/articles/171803-the-unbreakable-spirit-of-victor-bailey
「それは、1800年代後期に3人のフランス人医師にちなんで付けられました。基本的には筋ジストロフィーの一種で、遺伝性です。今、私は私の手や腕の筋肉を失い始めています」
インタビューでは、この病気の治療法がないこと、この先長くないであろうことも冷静に話しているように伺えます。
家族にも同様の病気が出ているので、いずれこうなることはわかっていたようです。発症は、なんと25年前に遡るようで徐々に悪くなっていった様子。最晩年は、おそらく演奏にも支障がでていたことでしょう。そんなハンディを乗り越えての、第一線での活動だったのですね。

2016年9月30日、本人がFacebookで、今ホスピスにいることを報告していました。
https://www.facebook.com/Victor-Bailey-843234602428843/?hc_location=ufi
最後は、シンガーだった妹らに看取られたようです。
おそらく本人も覚悟はしていたとは思いますが、56才はほんとうに若すぎます。
改めて、これまでの活動に敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします。